佐土原の古刹 蓮光寺
蓮光寺の歴史は決して平坦な道のりではありませんでした。
戦や廃仏毀釈、先の大戦など、人生と同じく、山あり谷あり。
しかし、それぞれの時代の人が、蓮光寺が残る道を選択し続けて下さったからこそ、現在の蓮光寺があります。
開基
蓮光寺の開基は、1525年(大永5年)釋道圓(岩切太郎左衛門)が山科本願寺に於いて証如上人より一貫代の御本尊を預かった年とし、
2025年には開基500年を迎える。
寺院名鑑には「開基は釋道圓、俗名は岩切太郎左衛門にして伊藤三位入道(伊藤義祐1512~1585)の近侍なり。当寺は浄土宗の末なりしも、山科より帰り真宗に転ず」とある。
寺号公称
慶長18年(江戸期:1613年)2世性寶の子が寺号公称の手続きを行い本願寺末となる。
廃仏毀釈
明治4年、神仏分離の波は大規模な廃仏へと向かった。
南九州の廃仏運動は薩摩藩(島津本家)が中心になって行われたが、それは「本山のみ残し廃寺」という厳しいものであった。
島津分家の佐土原藩も同じようにすべしという流れになった時、
藩内の浄土宗・高月院、真言宗・黒貫寺(都於郡)、臨済宗・大光寺、曹洞宗・大安寺(都於郡)、日蓮宗・吉祥寺、浄土真宗・崇称寺、浄土真宗・蓮光寺、
時宗・光照寺(都於郡)の住職が合同して、「一宗派一ヶ寺を残してほしい」という願書を民部省へ提出。
佐土原藩では本家の「本山のみ残し廃寺」という決定に抗して、
「一宗派一ヶ寺を残す」という願書どおりの道を選択し、結果的には、願書提出寺全てが残こされることとなった。
この「一宗派一ヶ寺を残す」という行動は鹿児島県、宮崎県を通じて佐土原のみの行動であった。
その中で一宗二ヶ寺の浄土真宗を許可した理由は不明である。